エビス堂大交響楽団 「我濫洞のムスメ」



毎度毎度スケールのやたらとでかい脚本を書くオカモト國ヒコ氏率いるエンターテイメント劇団。大風呂敷でありながらも、笑いあり、緻密な伏線と潔い主人公像で、最後にはどかんと感動させてくれる。
私はとても気に入っている。

新作「がらんどうのむすめ」は、まず古代篇を芸術創造館で上演、その一週間後に現代篇をKAVCで上演するという更なる変則型だ。
ふたつの物語はリンクしているが、それぞれ1本だけ観ても理解できるように構成されている。それでもこんな形で発表されれば両方制覇したくなるのが人情というもの。
私はこういう形態に弱い。お得な感じがしませんか、同じ題材を2方向から観れるなんて!
同じように、長く楽しめるという理由からマトリックス3部作やロード・オブ・ザ・リング3部作にもまんまとはまるタイプである。


古代篇

先読みの力で国を統べる古代の女王「ヒルコ」は、
逆臣ミカヅチの陰謀により来世を映すという「先見の鏡」を見てしまう。
そこには生まれついて動くことも喋ることも出来ない植物人間の少女「あやか」が映っていた。

度々来世が目の前に現われ、動けない自分の姿と幻の王国となってしまう国の行く末を見続けるヒルコは、
気が触れたかのように国を大きく広げようとする。

ヒルコと「ずっとの約束」をした盗賊アメワカは、
「先見の鏡」を追って生まれ変わったというトキハヤと名乗る少女と共に女王を守ろうとする。
トキハヤは言う。
あの鏡の光を見た者は生まれ変わる呪いを受けるのだと。

そんな中、ミカヅチによる他国の王子ニニギを王にしようとするクーデターの陰謀は着々と進んでいた。


ヒルコを演じるエビス堂看板女優の山本操は「おきゃん」な役がとてもうまい。
威厳ある女王でありながら、盗賊を殺さず「おまえの腕は女王の腕だ」と言って、いつのまにやらお互いに恋心を抱く仲になっている。
こっちが照れるくらの純情は、見ていて微笑ましい。オカモト氏はどうやら本格的なラブシーンを書くのは苦手だがその具合がとてもいい。
ヒルコは言う。
「国というのは、『ずっと』ということだ。人が殺されても私やおまえがいなくなってもずっと、ずうーっと続いていくということだ。」



古代篇は見応えがあった。
冒頭から既に古代と現代が交錯し、現代で遺跡が発見されるところから物語は始まる。
女王と盗賊の骨がまるで争ったように折り重なって発見され、幻の王国の女王は盗賊に殺されたのでは、という説が浮上する。
なぜ国は滅びたのか?なぜ歴史からまったく消え去った神話となったのか?
最後には、謎を提示したこのファーストシーンと、女王と盗賊の恋のラストシーンが完全にリンクした。同時に、生まれ変わった脇役の人物の思いを通じても古代と現代が繋がり、そのあまりの見事さに涙が溢れた。
「生まれ変わり」をモチーフにした作品は多いが、前世と来世が同時進行でここまで面白かったのは初めてだ。
二人のヒロインが同時に生きて、お互いを見ながらそれぞれ頑張っている。
それをちょっとずつ片方に比重を置いた形で2度見れる。ほら、お得!



現代篇

約二千年前の地層から古代の遺跡が発掘された。
日本の古代史ではあり得ないはずの王国。その遺跡からは女王らしき人物の骨が見つかった。

古代の女王の生まれ変わりである植物人間の少女あやかは、二十歳を越えたある日に突然動き出した。
インターネットなどで知識を仕入れ、動けぬ少女時代にずっとそばに居てくれた幼なじみの少年を探そうとする。

一方、幻の王国の発見者である「加古田」の思惑とはうらはらに、古代の女王と王国は現代のクーデターに利用される。
時折、前世の自分の姿を思い出しつつ、女王ヒルコの来世であるあやかは現代のクーデターに巻き込まれていく。

正直、古代篇に比べると盛り上がりに欠けた感がある。やはり2本立ては難しい。
原因としては、古代篇を見てだいたいのあらすじを知ってしまっていること、時代背景が近いだけに現代のクーデターの内容にのめり込みにくかったこと、の2点が挙げられる。
それでも、古代篇で見たときは古代の登場人物しかいなかった場面にあやかが登場して心の声を聞かせる場面はとても良かった。
女王は、幼馴染の新田少年が父親を殺したために去っていくときでさえ動かない来世の自分に、「なぜ動かないのだ!」と叫んだ。
あやかは、激戦地に赴く盗賊に行ってほしくないと思いながらも止められない前世の自分に、「どうして言わないのよ!」と叫ぶ。
ヒルコは蛭の子。手も足もなく何もできない我濫洞のムスメ。



二人のがらんどうの娘が二千年の時を越え、この国の「ずっと」と自分の「ずっと」を成し遂げたのだ。
そうして「ずっと」続いてきたこの国を、私たちはもっと愛おしく思っていいはず。