聖母(マドンナ)の深き淵/柴田よしき ★★★

一児の母となった村上緑子は下町の所轄署に異動になり、穏やかに刑事生活を続けていた。その彼女の前に、男の体と女の心を持つ美人が現れる。彼女は失踪した親友の捜索を緑子に頼むのだった。そんな時、緑子は四年前に起きた未解決の乳児誘拐事件の話をきく。そして、所轄の廃工場からは主婦の惨殺死体が…。保母失踪、乳児誘拐、主婦惨殺。互いに関連が見えない事件たち、だが、そこには恐るべき一つの真実が隠されていた…。ジェンダーと母性の神話に鋭く切り込む新警察小説、第二弾。

りこシリーズ2作目。りこが子供を産んで母になったこともあって、テーマは母親。1作目より読みやすかったです。3つの事件が絡んでくる上に、麻生と練の関わりも出てくるので、ちょっと話が散漫な気はするんだけど。それにしても、麻生と練の関わりのこと、この本だけ読んだんじゃわけわかんなくない?(笑)こっちが先に書かれたんですよね?そのわりに最後まで麻生で引っ張ってるし、まあ出番の多いのはいいことなんだけど。城本がかわいそうだったなー。


「村上さん」麻生はやっと声を和らげた。「警官やってると敏感になることと鈍感になることがあるんだよ、わかる?」
 緑子は麻生の目を見上げた。もう怒ってはいない。だが決して、緑子を許してもいない目だった。
「人が嘘を吐いてるなとか何か隠してるな、なんてことには敏感になる。これは時として便利だが、時として悲しい。そしてもっと悲しいのは、他人の生活や秘密、そっとしておいて欲しいプライバシーに土足で踏み込んでいることに対して、とても鈍感になってしまうことなんだ。(中略)だが俺は、金を貰えばそれをやる。それが俺の仕事だ。だから金を貰わない時には絶対にそんな真似はしない。俺は自分が他人の人生を土足で踏み荒して金を貰って生きていることを認識している。そのことで誰かに憎まれたり蔑まれたりすることは、覚悟の上だ。君は警官だ。もし君が仕事で誰かを尾行するなら、君はそのことで尾行した相手から恨まれ、犬と罵られることは覚悟しないといけない。だからね、君は決して、仕事以外の時にそんなことをしたらいけないんだよ。普通の人が誰かを尾行してそれを相手に咎められたら、一発殴られるくらいのことはあるだろう? でも君には権力と言う後ろ盾がある。どんな時でも君は、私は警察官です、と言うだけで私的制裁を免れる特権を持ってしまっているんだ。そんな人がこんな冗談をしては、絶対にいけない。俺の言いたいことは、わかるね?」

 緑子は声を出して笑った。
「教えてあげればいいのに。歯ぎしりって、身体に悪いのよ」
「お互い様だからなぁ。その人の話だと、俺はイビキをかくらしいから。あとは、そうだな、酒が強いな。酔い潰されたことが何度かあるよ。その人は酔うと少し下品になるんだ。扇情的になって、すぐに脱ぎたがる。あれは悪い癖だな……あ、俺も酔ったな、もう止めようか」
「いいじゃないの、続けてよ。大丈夫よ、あたし。こう見えてももう大人だから。酔って下品になって、それからどうなるの?」
「天使になる」

 緑子は思わず吹き出した。
「麻生さん……そんな言い回し、どこで習ったの? 昔からそんなにロマンチストだったの? そうだとしたら、最高」

「(略)もし麻生さんだったら、そう言われてどうする? あたしは迷わなかった。迷わずに、抱き合って泥の中に飛び込んだ。でも結局、あの人の運が尽きていたのね。あたしは泥の中で溺れる寸前に助け出された」

「俺にも」麻生の声は掠れていた。「俺にも一緒に沈めって言うのか、君は」
 緑子はコップを揺らし、酒の表面がゆっくりと波打つのを見つめた。

「いいえ。あたしとあなたは似ているみたいで違ってる、それだけの話よ。でもね、麻生さん……あなたは逃げた。残されたその人は、今、どんなことを考えているのかしら。その人が破滅したがっているように見えたのは、きっと、あなたに抱きしめて、言ってほしかったのよ。わかったよ、一緒に破滅しようって。あたし、ぼんやりとだけどわかる気がするの。その人はあなたに対して、コンプレックスを感じていた」
「コンプレックス?」
「そう。あなたは清潔過ぎる。どこまでも、人格が気高すぎるのよ。(中略)
だって彼女はヤクザの女で、酒飲みで下品でセックスが大好きだったんでしょう? それだけじゃない、きっと、あなたには言えないようなことをたくさんして来たはずよ、これまでの人生で。彼女は辛かったのよ。自分があなたを汚しているのが辛かった。あなたのように清潔になれない自分が惨めだった。だからあなたに言わせたかった。おまえの為に、俺も黒く染まると言わせたかった」