敗者から見た関ヶ原合戦/三池純正


西軍必勝の秘策は、関ヶ原現地にその証拠が遺されている。三成ら西軍は、事前に中山道、北国街道を封鎖し、自陣の前面に巨大な土塁や切岸・柵を築き、松尾山の山下には強力な陣城を築いて鉄壁の防御態勢を準備していた。徳川家康ら東軍は、関ヶ原に誘き出され、西軍のエジキになるはずだったのである。西軍には考え抜かれた作戦が存在し、実際、合戦の勝負は最後の最後までわからなかった。長年の現地遺構調査により、三成ら西軍の「一大作戦」の全貌を明らかにする。

一般6冊目。現代に残っている遺構や、関ヶ原の地形をフィールドワークして導き出した、三成が経験の浅い愚将との従来の説を覆すべく書かれた研究本。どんなけ三成贔屓なんだよ、とか、少々くどかったり無理があったりする部分もあるけど、なるほどなーって思った箇所もあった。

  • とにかく関ヶ原合戦の情勢にとって肝だったのは、西軍が秀頼を担ぎ出せるか否かの大義名分。その意味で大阪城に残した総大将毛利輝元をうまく動かせなかったのが痛い。毛利家が吉川と安国寺に二つに割れていて、吉川広家の工作で動かなかったみたい。確かに、毛利秀元の陣と、あと長宗我部の陣があんなとこにあるのは不自然だよなー。
  • 中山道を大谷隊が封鎖、北国街道を石田隊と島津隊が封鎖、塁壁を築いて防衛ラインを引いていた。
  • 関ヶ原を見渡せる、一番立派な陣地=丸尾山に、大阪城を出た毛利&秀頼を迎えようとしていたのに、初めから裏切るつもりだった小早川秀秋が陣取っちゃった、て説もこのやろーといい具合に腹が立ったねw
  • 大阪の陣とか、真田家のこととか、淀殿と寧々殿のこととか、新たに気になる部分も出てきたりして。




『慶長記』には、「佐和山城には落城以後、金銀は少しもない。三成は少しも貯えてはいなかったからだ」とある。(中略)

 江戸時代の書物『老人雑話』には、三成が普段から言っていた言葉として、「奉公人は主君より戴いたものはすべて主君のため使って残さないものだ。残すのは盗人であり、さらに使いすぎて借金するのは愚人である」という言葉が綴られている。